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アジア・太平洋戦争「大東亜戦争は自存自衛のため」との主張を批判する
日本共産党蕨市議団

6月21日、定例市議会最終日、国旗・日の丸等の議場への掲揚を求める請願に対する新生会の賛成討論で「大東亜戦争は我が国の自存自衛のためのものであり、東亜の安定を確保しもって世界の平和に寄与するためのもの」との発言がありました。この見解は、歴史の事実をゆがめるものであり見過ごせません

以下、日本政府の公式資料を踏まえ、歴史的経緯を中心に、アジア・太平洋戦争(前出の大東亜戦争)の評価について日本共産党の見解(概要)を紹介します。
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1931年9月、関東軍は柳条湖の南満州鉄道の路線を爆破して中国軍の攻撃だと偽って軍隊を出撃させ、半年ほどの間に「満州」の全域を占領し、32年に関東軍の傀儡国家である「満州国」を「建国」(満州事変)。これが中国に対する本格的な侵略戦争の始まりです。

37年7月には、北京近郊の盧溝橋で日本軍に何者かが発砲したという事件を口実に、日本は中国への全面戦争へ乗り出しています。38年1月の「御前会議」で決めた「『支那事変』処理根本方針」には、広大な領土を支配下に置いたうえで、中国政府そのものを政治・軍事・経済的な従属のもとに置こうという、侵略の野望がむき出しの形で示されています。

その後、日本は、41年12月の真珠湾攻撃、マレー攻略で、アジア・太平洋戦争に突き進みました。

この点について、日本が不当な経済制裁にさらされ、やむにやまれず「日本の自衛」のためにたちあがったのが「大東亜戦争」だったという理屈があります。しかし、この議論は開戦直前に軍部が宣伝用に持ち出した議論であり、実際に、日本の侵略計画はそれより1年以上前の40年9月に、大本営政府連絡会議における「日独伊枢軸強化に関する件」で具体化されます。これは、東南アジア・南太平洋地域を含む広大な範囲を日本の「生存圏」として境界を画定させたものであり、ヨーロッパのナチス・ドイツなどの領土拡大の動きと連動し、世界再分割を図ろうという野望が示されたものでした。

日本政府の公式資料から見ても、途方もない領土拡張を目的として始めたのがアジア・太平洋戦争だったことは明らかです。そして、2000万人ものアジアの人々の命を奪い、300万人をこえる日本国民の命を失うという痛ましい結果となりました。長期にわたる日本の植民地支配が、アジア各地に深刻な傷跡を残し、様々な国際問題となっている事実も無視できません。
戦後、日本は、侵略戦争と植民地支配の歴史を真剣に反省し、二度と繰り返さない決意のもと、国際社会に復帰しました。これはいわば国際公約でもあります。

一方、安倍政権のもとで、侵略戦争の美化や戦前回帰の動きと一体に、憲法9条を骨抜きにする改定が狙われていることは深刻です。日本共産党市議団は、命がけで侵略戦争と植民地支配に反対し、民主主義の実現を求めてきた党の歴史を引き継ぎ、市民と力合わせ、憲法改悪を阻止するために全力を挙げる決意です。
(参考資料:「綱領教室・第一巻」志位和夫)