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原発さえなかったら 全村避難の飯舘村からの報告」に参加して

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5月12日、蕨市生活と健康を守る会主催の企画「原発さえなかったら 全村避難の飯舘村からの報告」で、飯舘村村議・佐藤八郎氏のお話を伺いました。
 佐藤氏が生まれ育った美しい村では、住民が力を合わせて村づくりが進められていました。「原発事故があったのは、まさにそうした努力が実るはずの年。いい方向で進んでいたはずの村が一瞬でなくなってしまった」といいます。どれほど悔しく、悲しく、辛かったことか…。佐藤氏が紹介する村の人たちの一言一言、東電や政府に向けられた一言一言はとても重く、胸に響きました。とは言っても、佐藤氏の語りそのものは軽妙で、明るい雰囲気。「深刻になるのは村の人の悩みを聴くときだけで十分。泣いてばかりはいられない。笑って話すようにしているし、明るくたたかうことが大切」という言葉には、想像を絶する2年間を頑張り通してきた強さがあるのでしょうか。
 ふるさとを奪われ、さらに、保証や条件をめぐって地域が分断される辛さは、想像もできないことですが、直接話しをお聞きすることで、その一端に触れた思いです。もっともっと多くの人たちに聞いて欲しい話でした。
以下、トピックスでの紹介する予定の記事
 5月12日、蕨市政権会主催による企画「全村避難の飯舘村からの報告 原発さえなかったら」が行われました。講師は、福島原発事故に伴う放射能汚染により全村避難を余儀なくされた福島県飯舘村の村議会議員で飯舘村生健会事務局長の佐藤八郎氏。市民の関心は高く、開会の午後1時30分には満席となりました。
 浅名会長の挨拶に続いて紹介された佐藤氏は、かつての村の生活について「個人所得は低くとも、助け合って暮らしていた」と紹介。「日本で最も美しい村」に登録される飯舘村では、集落ごとに地域の将来像について話し合いが持たれ、それが村の総合新興計画に反映されるなど民主的な行政・村民共同の村づくりがあったそうです。そして、「原発事故があったのは、まさにそうした努力が実るはずの年。いい方向で進んでいたはずの村が一瞬でなくなってしまった」と続けました。
 子どものいる若い世代は遠く離れた地域に移り、慣れない仮設住宅に暮らす多くの高齢者は「年寄りだけで村に帰るのか?でもここで死ぬわけにいかない。しかし帰っても(汚染され)食べるものもない、子どもも孫もいない。それが人の暮らしか?」など、先行きの見えない不安を訴えるのだそうです。他にも、仕事がないことへの不安、「結婚しない」「子どもを産まない」と決めた若い世代の苦悩なども語られました。
 また、「原発事故では加害者が物事を決めてくる。彼らに加害者としての意識はない」「彼らはいろんな手を使って住民の分断を図ってくる」と、保証やその後の対応をめぐる政府や東電などの姿勢を批判。依然として高い放射線量が計測されていることに関連し、「個人的には、『帰ることはない、自立して生きろと』いうが、村議会議員として聞かれればそう言えるか…」と思いの一端も語られました。
 さらに、会場からの質問に答えながら、「あまり難しく考えず、『危ないものはなくそう』という思いを広げよう」「福島で避難を続ける16万人が手を結んだだけで戦える相手ではない」「バラバラにされない運動を広げることが大切」と強調しました。
 佐藤氏の話は全体的に軽妙で明るい雰囲気。しかし、涙を抑えながら聞き入る人の姿も目立つなど、現実に起きている問題の重さが心に響くような内容でした。
 公演後は、東京労音合唱団が合唱曲「つぶてソング」を披露。これは、福島在住の詩人がツイッターで発信し続けた被災地を綴った何編かの詩をもとにした歌です。この美しい歌声にも会場から大きは拍手が寄せられました。
 また、蕨市生健会から、昨年9月以降の災害の日宣伝などで寄せられた募金12万8334円を飯舘村で役立てて欲しいと佐藤氏に手渡されました。あわせて、今後1年間は寄せられた募金を、同様に飯舘村生健会を通して飯舘村に送り約立ててもらうこととしたことが報告されました。